文字にできる

 

「流浪の月」を昨日一気読みしまして。

 

 

 

少し前に購入はしていたのだけど

 

最近はもっぱらお菓子作りにはまっていたので眠ってしまっていた本。

 

 

 

寝つきが良くない、あまり寝られていないという話をしたら

 

読書したら眠くなりませんか?と後輩に言われ

 

それもそうかといつも寝る時間の少し前から読み始めたら

 

私の大好きなタイプの本で、

 

寝るどころか一気読みして夜更かししました。

 

 

 

本を読んでいて思うのは、

 

考えていること思っていることを

 

文字として書き出せる人はすごい。

 

 

文字にして伝えるには

 

言葉でいうニュアンスや

 

直接会って話すときの雰囲気、身振り手振り、フィーリング

 

そのすべてを越えていかなければならない。

 

 

 

本当にすごい。

 

 

 

私の語力がなさすぎてすごいしかでてこない。

 

 

 

この本は私が結構前にもんもんと考えていた

 

「事実」と「真実」について書かれている。

 

 

 

事実と真実は似て非なるもので

 

個人の解釈によって大きく変わる。

 

 

 

実際に起こった出来事を事実とするならば

 

そこに付随してくる人の感情や考えを真実というんだろうか。

 

 

 

私は文字にも言葉にもできる人間ではないので

 

はっきりとこうだとは言えないけれども、

 

こういうことを考えたり読んだりしていると

 

なにが正解なのかがわからなくなってくる。

 

 

 

これはマイナスの意味ではなくて、

 

起こったことだけをみるのではなくて、

 

「なぜ」それが起こったのかということも

 

ちゃんと考えたいし、考えなきゃいけない。

 

そう深く考えさせられる。

 

 

 

 

何が言いたいかって、

 

めっちゃ良い本だった。

 

感動した。

 

夜更かししてでも一気読みした価値がある。

 

 

 

見えていることだけが事実ではない。

 

いろいろな方向から物事を見ることができるようになりたい。

 

 

 

腹痛な昼下がり

漢方のせいなのか、ストレスなのか、はたまた天気のせいなのか、

理由なんて探そうと思えばいくらでも出てくる。

 

ただ不思議なのは、帰る道中に腹痛は治まるということ。

 

じゃあストレスじゃないのってね。

でも分からないのよね。精神ひどくて漢方飲んでしまったもんね。

 

 

ふわふわとゆらりゆらりと生きていきたい。

HSP的な PMDD的な 日々

HSPがひどくなったというよりかは、人と関わることが少なくなって対人耐性が弱まったという方が合っているかもしれない。

 

PMDDを持ちながら安定して生きていくことは難しいのだろうか。

 

 

うつ状態は続いて、漢方も体に合わなくて、ストレスもなくならない、自律神経も相変わらずな感じ。

 

こう思うと私の体ってボロボロなんだな。かわいそ。

 

客観的に見れば自分を大切にできてないなーなんて思うんだけど、

実際に生きていると比べる対象は百万とあるわけで、

自分の状態がかわいそうとか、しんどいとかつらいとか、

そんなことよりも壊れてはないからまだやれるでしょうと思う。

 

かわいそうっていう表面しかみない人間とか、

心配してる自分に酔っている人間とか、

そういう時だけ近づいてくる人間とか、

心から信用できる人なんていなくて、結局みんな自分がかわいいからね。

自分自身も例に漏れずだけど。

 

人間って嫌い。

 

 

そんなことを日々痛感する

HSP的な PMDD的な 日々

 

2020.3.29.第5主日礼拝式

「正しい方が身代わりに」

ペテロの手紙第一 3:17-18

 

このペテロの手紙は苦難の中にある兄弟姉妹に向けてペテロが書いた手紙。

同じ量くらいのほかの手紙を見ても、「苦難」や「困難」という言葉がこんなにも多く書かれているのはペテロの手紙だけ。

 

この世界には2種類の苦しみがある。

・悪を行って受ける苦しみ

・善を行って受ける苦しみ

 

悪を行って受ける苦しみは当然のことだけど、

善を行って受ける苦しみは理不尽なもの。

 

17節

「~悪を行って苦しみを受けるより、善を行って苦しみを受けるほうがよいのです。」

この17節の最初に書かれているのは

「神のみこころであるなら」

 

これはとっても大事な言葉。

 

悪を行ったなら苦しみや刈り取りは当然なことというのは大前提として、

善を行おうと思っても、私はその先の現実を見てしまう。特に人間関係ではそう。

善を行ったところで、

結局相手は何も変わらない

相手を傷つけるかもしれないけど、それは相手にも必要なことだから

それをしても相手は私の望むように変わってくれるわけではない

 

他にも思うことはたくさんあるんだろうけど、そんなことを思うと、

じゃあ善を行うことに意味ってあるの?って思ってしまう。

私が善を行ったところで、相手はいいのかもしれないけど、

自分は善を行ったのに、相手は私に私の思う善を行ってくれない。

なんで?ってひたすらもんもんしだしてしまう。

善を行った自分は嫌な思いをして、悪を行って善をもらった人は何も変わらない。

そんなのおかしくない?って言いたくなる。

 

でも、神様は相手が変わることではなくて、私が変わることを望んでるし、

自分の益ではなくて「神様のみこころ」を第一に求めることを望んでおられる。

私はどうしても最終的な益の行く場所が自分であってほしいと心の奥で願ってる。

善を行って、「私」の心がすっきりしてほしい。

「私」の望んだように、「私」が幸せと感じられるように

「私」が「私」がって。

私が幸せになるために神様を使ってる。

 

でも神様が言われているのは、「神のみこころであるなら」

ここに全部の答えがあると思うんだ。

 

神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることができない。

伝道者の所3:11

 

神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。

ローマ8:28

 

 

神様のこころに、計画に、私は召されている。

私主義ではなくて神様主義で生きるにはどうしたらよいのか。

 

エス様が究極の模範者なのだと再認識させられる。

18節

「正しい方が正しくない者たちの身代わりになられたのです。」

ここに、全くの神様主義で生きたイエスさまのすべてが書かれてる。

神様のみこころにしたがって歩んで、自分の益とはならなくてもそれを貫き通したお方。

エス様は神様だから、人間の私に同じことができるわけではない。

でも、それでも、そのように生きたいと思った。

神様のみこころがわかんないっていうのはきっと甘えでしかない。

だって、聖書でも教えてくれて、祈りでも導いてくださる。

神様はすでに私の隣におられる。私がそれを受け取るのか、無視し続けるのかのどっちかだ。

 

私は神様のみこころに歩んでいきたいよ。

その場限りじゃなくて、自分の益じゃなくて、

神様が神と隣人を愛せと言われたように、

そのように生きていきたいよ。

 

 

それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、

忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。

この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

ローマ5:3-5

 

2020.1.24.

 

「興味深いことに、痛みや苦しみ自体が大きな打撃を与えるのではありません。

心の混乱こそが、人の信仰をズタズタに引き裂く一大要素なのです。」

 

苦難の時にも 第一章 -神を見失ったとき-

 

 

本当にその通りだということを経験した今日という日。

 

きっかけは何にしろ、そこからの自分の心と向き合わなきゃいけない。

痛みや苦しみがあって、そこから自分の中でさらに痛みを増し加える。

それはHSPの特性でもあるかもしれないけれども、

自分の中で、想像で、痛みや苦しみを解釈しようとしてしまう。

その結果、自己卑下だったり他人を裁いてしまったりして心がどんどん荒んでいく。

 

でも、自分の心だけが答えではない。

自分の心に正解があるのかもしれないけれど、

人との関わりでは相手にも正解がある。

 

言葉で混乱してしまったのなら、すり合わせる必要がある。

それは相手に対してこう言われて傷付いたんだ。謝れ。

っていうものではなくて、

相手がどうしてその言葉を選んで伝えてきたのかってことを知ろうとすること。

そのためにはさらに傷付くかもしれないけれど、相手とちゃんと話さなきゃいけない。

先延ばしにするのでもなくて、ちゃんと話す勇気を持つこと。

 

 

自分の心だけで考えてるのはもんもんするけれど、相手と向き合わなくていい分、楽ではある。

勝手に裁いて、相手を悪者にすることで、自分を慰めて、認めようとしてる。

でも、それでは相手のことを一生愛せない。

 

 

「愛せるように」「受け入れられるように」

そう祈った今日の朝。

どうしてこんなことが起こったのか、理解ができなかった。

これは刈り取り?訓練?

どちらにしても、私は彼女を愛したいって祈ったのになんでって。疑問と混乱しか湧いてこなかった。

今までだったら彼女には何も言わず、心の中で彼女を裁いて裁いて、でも心は荒んだまま。そんな状態だっただろうな。

でも、私は神様に祈った。何が何だかわからないけれど、このまま彼女を裁き続けるのは嫌だって。

自分の中でたくさん考えてぐるぐるしててもいいんだけど、それじゃあ解決はしない。

って。この状況に向き合おうって決心できた。

電話して話したら、すぐに誤解だって理解できた。

自分の苦手な人でも、愛したいならちゃんと向き合わなきゃいけないことを教えてもらった。

 

でも祈ってなかったら、きっと向き合うことなんてできなかったんだろうな。って思う。

なんでかって言われるとそれはそれでうまく言葉にはできないんだけれど。

 

 

神様が求めてるものって自ら愛そうと一歩踏み出すことなのかもしれない。

 

2019.04.01.

 

私は、上澄みをちょろっとすくっただけで、

今まで寄り添って積み重ねてきた働きには勝てない。

 

 

すごいなーって。ここまで寄り添って祈って励まして。

それでもって、たかだか少しの時間、

その上澄みをすくったこんな年下のガキんちょの私に、ありがとう。って言える寛大さって言うの?もーーー、素敵すぎる。

それだけ、大切にしてるってことなんだよなー。

 

あーーーそんな素敵な大人に私もなりたい。

 

 

 

『愛』 ジョージ・ハーバード

 

愛は私を招き入れたが、私のたましいはためらった
ちりと罪に汚れていたから
愛はすぐにきづき、ためらう私を見ていた
戸口を入ったその時から
私に近づき、優しくたずねた
何をためらっているのかと
「ここにふさわしくない客ですから」私は答えた
愛は言った「おまえは十分ふさわしい」
「私が? 冷淡で、恩知らずな私が? ああ
私にはあなたを見上げることができません」
愛は私の手を取り、ほほえみながら言った
「わたしが、その目をつくったのでは?」
「そのとおりです、主よ。しかし、私はそれを汚しました。
どうか私の恥が受けるにふさわしい報いを与えてください」
「おまえは知らないのか」と愛は言う
「誰がその恥を担ったのか」
「わが主よ
それではあなたに仕えさせてください」
「まず座りなさい」と愛は言う
「味わうのです、私の肉を」
そこで、私は座って、食べた

 

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神さまは、私に言い訳をさせてくれない

 

どれだけ逃げようとしたって、捕まえられる

 

私はあなたを裏切った。あなたを悲しませた。

 

本当はあなたの愛から目をそらせたい。

あなたの愛が大きくて、自分が惨めになる。

だから、裏切ったこと、傷つけたことに報いをくださいって。

神さまを自分の基準に降ろそうとしてる。

 

 

でも、そんなこと全部とっぱらって、

もう全部清算されてる。

とにかく座って、私に仕えなさい

 

問答無用じゃん。って。笑

 

 

でも、とにかく、とりあえず、

わたしはあなたを愛してるんだから。

わたしはあなたを離さないんだから。

落ち着け。わたしのもとに座って、

わたしが養うままに生きなさい。

 

って言われた気がした。

 

重い、深い、大きな、神さまの愛

 

きっと、引き離せない。

引き離させられない。

愛されてて、諭すように

わたしはあなたを永遠に掴んでる。って

言われた気がしたんだ。