2020.1.24.
「興味深いことに、痛みや苦しみ自体が大きな打撃を与えるのではありません。
心の混乱こそが、人の信仰をズタズタに引き裂く一大要素なのです。」
苦難の時にも 第一章 -神を見失ったとき-
本当にその通りだということを経験した今日という日。
きっかけは何にしろ、そこからの自分の心と向き合わなきゃいけない。
痛みや苦しみがあって、そこから自分の中でさらに痛みを増し加える。
それはHSPの特性でもあるかもしれないけれども、
自分の中で、想像で、痛みや苦しみを解釈しようとしてしまう。
その結果、自己卑下だったり他人を裁いてしまったりして心がどんどん荒んでいく。
でも、自分の心だけが答えではない。
自分の心に正解があるのかもしれないけれど、
人との関わりでは相手にも正解がある。
言葉で混乱してしまったのなら、すり合わせる必要がある。
それは相手に対してこう言われて傷付いたんだ。謝れ。
っていうものではなくて、
相手がどうしてその言葉を選んで伝えてきたのかってことを知ろうとすること。
そのためにはさらに傷付くかもしれないけれど、相手とちゃんと話さなきゃいけない。
先延ばしにするのでもなくて、ちゃんと話す勇気を持つこと。
自分の心だけで考えてるのはもんもんするけれど、相手と向き合わなくていい分、楽ではある。
勝手に裁いて、相手を悪者にすることで、自分を慰めて、認めようとしてる。
でも、それでは相手のことを一生愛せない。
「愛せるように」「受け入れられるように」
そう祈った今日の朝。
どうしてこんなことが起こったのか、理解ができなかった。
これは刈り取り?訓練?
どちらにしても、私は彼女を愛したいって祈ったのになんでって。疑問と混乱しか湧いてこなかった。
今までだったら彼女には何も言わず、心の中で彼女を裁いて裁いて、でも心は荒んだまま。そんな状態だっただろうな。
でも、私は神様に祈った。何が何だかわからないけれど、このまま彼女を裁き続けるのは嫌だって。
自分の中でたくさん考えてぐるぐるしててもいいんだけど、それじゃあ解決はしない。
って。この状況に向き合おうって決心できた。
電話して話したら、すぐに誤解だって理解できた。
自分の苦手な人でも、愛したいならちゃんと向き合わなきゃいけないことを教えてもらった。
でも祈ってなかったら、きっと向き合うことなんてできなかったんだろうな。って思う。
なんでかって言われるとそれはそれでうまく言葉にはできないんだけれど。
神様が求めてるものって自ら愛そうと一歩踏み出すことなのかもしれない。