2020.3.29.第5主日礼拝式
「正しい方が身代わりに」
ペテロの手紙第一 3:17-18
このペテロの手紙は苦難の中にある兄弟姉妹に向けてペテロが書いた手紙。
同じ量くらいのほかの手紙を見ても、「苦難」や「困難」という言葉がこんなにも多く書かれているのはペテロの手紙だけ。
この世界には2種類の苦しみがある。
・悪を行って受ける苦しみ
・善を行って受ける苦しみ
悪を行って受ける苦しみは当然のことだけど、
善を行って受ける苦しみは理不尽なもの。
17節
「~悪を行って苦しみを受けるより、善を行って苦しみを受けるほうがよいのです。」
この17節の最初に書かれているのは
「神のみこころであるなら」
これはとっても大事な言葉。
悪を行ったなら苦しみや刈り取りは当然なことというのは大前提として、
善を行おうと思っても、私はその先の現実を見てしまう。特に人間関係ではそう。
善を行ったところで、
結局相手は何も変わらない
相手を傷つけるかもしれないけど、それは相手にも必要なことだから
それをしても相手は私の望むように変わってくれるわけではない
他にも思うことはたくさんあるんだろうけど、そんなことを思うと、
じゃあ善を行うことに意味ってあるの?って思ってしまう。
私が善を行ったところで、相手はいいのかもしれないけど、
自分は善を行ったのに、相手は私に私の思う善を行ってくれない。
なんで?ってひたすらもんもんしだしてしまう。
善を行った自分は嫌な思いをして、悪を行って善をもらった人は何も変わらない。
そんなのおかしくない?って言いたくなる。
でも、神様は相手が変わることではなくて、私が変わることを望んでるし、
自分の益ではなくて「神様のみこころ」を第一に求めることを望んでおられる。
私はどうしても最終的な益の行く場所が自分であってほしいと心の奥で願ってる。
善を行って、「私」の心がすっきりしてほしい。
「私」の望んだように、「私」が幸せと感じられるように
「私」が「私」がって。
私が幸せになるために神様を使ってる。
でも神様が言われているのは、「神のみこころであるなら」
ここに全部の答えがあると思うんだ。
神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることができない。
伝道者の所3:11
神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。
ローマ8:28
神様のこころに、計画に、私は召されている。
私主義ではなくて神様主義で生きるにはどうしたらよいのか。
イエス様が究極の模範者なのだと再認識させられる。
18節
「正しい方が正しくない者たちの身代わりになられたのです。」
ここに、全くの神様主義で生きたイエスさまのすべてが書かれてる。
神様のみこころにしたがって歩んで、自分の益とはならなくてもそれを貫き通したお方。
イエス様は神様だから、人間の私に同じことができるわけではない。
でも、それでも、そのように生きたいと思った。
神様のみこころがわかんないっていうのはきっと甘えでしかない。
だって、聖書でも教えてくれて、祈りでも導いてくださる。
神様はすでに私の隣におられる。私がそれを受け取るのか、無視し続けるのかのどっちかだ。
私は神様のみこころに歩んでいきたいよ。
その場限りじゃなくて、自分の益じゃなくて、
神様が神と隣人を愛せと言われたように、
そのように生きていきたいよ。
それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、
忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。
この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
ローマ5:3-5